キリスト教会は、イエスによってもたらされた「福音」や、そうなった背景、神の意志と愛を伝えることを使命として活動してきたと思います。
この行為は、初代教会から脈々と、今に至るまで続けられていますが、その方法はその時代や国、地域、集まりの規模などに即した、多様なスタイルになっています。
例えば、識字率が低いのであれば聖書を与えても読めませんから、聖職者や牧会者が聖書を読み聞かせることになるでしょう。参加者の教育レベルがある程度あるのであれば、それぞれが聖書を読み、自分の考えや牧会者の体験を紹介しあいながらの集会になると思います。
また、情報伝搬の方法も様々で、つい最近までは実際に会堂に集い、メッセージを聞き、語りあうスタイルに限られていました。
しかし、ITが進歩し、一般的に広く、その恩恵を受けることができるようになってからは、まさに日進月歩のスピードで生活のすべてが変わってきています。これは、キリスト教会においても無縁ではなく、むしろキリスト教会こそ、この流れの中心なのだと感じます。
科学技術というのは、まさしく神の奥義の片鱗で、かつ(人が)使うことを許された神からの賜物です。神の意図しない事は、人に対して現わさられることはありません。
マタイによる福音書に「タラントンのたとえ」があります。ITの進歩のスピードに翻弄されている私たちに当てはまるテーマだと思います。
現代において、「コンピュータ」、「リモート〇〇」(リモートコントロールとか)、「テレ〇〇」(テレビ、テレフォン、テレワークとか)という言葉を(意味は分からなくても)聞いたことがないという人はいません。
まさしく、これらが現代の「タラントン」です。
平均的日本人高齢者の特徴として「現状維持バイアス」と「ITアレルギー」を持っていることが挙げられます。しかしそれらは、何の根拠も合理性もありません。単なる「サボる口実」にすぎません。
先進諸国にはもはやFAXという機械は存在しません。スマートフォンで写真を撮り、Lineやメールで送信するのです。80才を過ぎた高齢者も普通に出来ます。
何が言いたいかというと、日本社会の高齢化に伴い、教会もまた高齢化が進んでいるということ。更に、高齢化が進んだ教会では「サボり」が横行し、成長も新陳代謝もなくなるということ。そういう状態では雰囲気も沈鬱なものとなります。せっかくの礼拝も、毎回同じことの繰り返しで、魂がときめくことはありません。
他方、インターネット経由での礼拝も取り入れる教会があることは一つの希望です。会堂へ集う方もインターネットで参加する方も、距離を超越して同時に語りあい交わることができます。
現代は、現実空間とインターネット空間の二つの空間から織られています。現実空間にしか存在しない組織は現代の社会においては「存在しない組織」とみなされます。
インターネット空間を活用しない教会組織とは、「存在していない」だけではなく、主人(神)から与えられたタラントン(技術)を土に埋めて、増やそうとしなかった召使です。否、むしろ、それ以下です。現代のタラントンは、土に埋められれば、即座に腐りはじめ、着実に目減りしていきます。
イエスの教えは2000年前の十字架で死んだのでしょうか?2000年もの間、何も変わらずにあるのでしょうか?そうは、思いません。十字架は古代ローマの処刑具ですが、イエスの弟子である者には「永遠の命」の象徴です。イエスの意思も、神の計画も着々と進行中です。
そして、すべての事柄について、神が計画を進めているのに、(結果的に満足できる点数は望めないにしろ)一部分でも、自分勝手にあきらめ、あゆみを止めることは許されざる行為です。教会はゾンビの集いでないはず。
忘れていけないのは「現代においてタラントンを土に埋めると即座に腐り、着実に消えていく」ということです。