自分は建築鉄骨製品検査技術者、非破壊検査技術者(UT)として働いています。当然、こういった検査や試験という業務には規格というのがセットになっています。規格が定まっていないと、合格か不合格かの線引きができません。それに検査の方法もバラバラだと、検査結果の信ぴょう性が得られなくなります。
ただし、日本の場合、この規格が異常に細かいのです。
海外では、最低限のレベルのことしか定めずに後はケースバイケースで検査技術者が考えて指示を出すのです。そのための技術者であり、資格なんですね。
工学部の学生だった時、「技術者」と「技能者」の違いについてある教授が話されていたのを今でも覚えています。
その内容は、「技能者」というのは「技術者が開発した方法に従って、高品質の製品を高効率で作ることができる者」であるのに対し「技術者」というのは「ある要求を満足させるために、既存の方法を改良したり、新規の方法を見出して、実用化することができる者」です。
ですから「技術者」は職人ではないので、きれいに切断できるとか、溶接できるとかいうことは求められません。が、「今まで不可能だったことや困難だったことをどうやれば実用的に実現できるか」ということを求められます。
「技術者」とつく資格には、あまねくそういったことが求められているはずです。
「はず」といったのには理由があります。それは前述の「細かすぎる日本の規格」ということにもつながります。
「規格」があまりに仔細にわたって定まっているので、技術者として考えることが(出来)ないんです。こうすればもっと簡単にできるのにと思っていてもJISに書いていないのでやらない。
実際に、下のような事態も発生していると聞いています。
経産省にて…
(JIS策定委員)「〇〇〇といった場合は、◇◇の方法で検査をするほうが良いのだが、経産省としての意見はどうか」
(経産省官僚)「JISにはこのように書いてあります」
(JIS策定委員)「それは私が発案した本人なので、よく知っている。だが◇◇の方法のほうが正しい結果をもたらすのだが、見解を聞いている」
(経産省官僚)「しかし、JISにはこう書いてありますし」
(JIS策定委員)「...」
官僚の特性である「責任を問われるようなことにはかかわらない」が如実に見えちゃうんですね。
「ルール作り」と「段取り」は熱心だけど、いざそれでは十分に対応できない事態となったとき、日本人の思考は見事なまでに「停止」し「再始動」しません。
骨董品となった壊れたルールをどう使えば良いかに固執して、目の前にあるピッカピカの新しいルールには目もくれません。
仮に、既存のルールではかなり苦しいが、何とかなるのであればそれで良しとして改善もしません。
結果的に、既存のルールにのっとって、集団で活動するのがうまくいっている場合はすごく生産性が高いのですが、周りのライバルがどんどん成長してきても、日本は旧態依然を良しとして抜かされてしまうんです。しかもそのことに誰も気が付いていない。
日本全体がとにかく「責任はとりたくない」というのをベースに動いているから。「昔のルールにのっとっていれば、そのルールを決めた人はもういないし、責任を取らせることもできない。当然、自分は責任を取りたくないから新しいルールは決めません」ってな具合。
残念ながら、官僚も政治家も、技術者も、国民全体がそう。だから日本は民主主義国家ではなく官僚主義国家だなんて言われるんです。
日本の同調圧力の高さもこの特性のためだよね。日本人ってレミングスみたい。
とんでもない方向にいってしまったけど、必要以上の規格はヒトを怠け者にする毒だねってことを言いたいだけでした。